異業種の取り組みから、茶業のヒントをお伝えしているこのページ。いつもとちがう角度から茶業を考える、そんなきっかけにしていただければ幸いです。今回ご紹介するのは、「豆徳」の屋号で知られる豆菓子の徳永製菓様。明治二年創業、竹炭の豆菓子を世に初めて送り出すなど、常識にとらわれない商品開発力で躍進されています。二〇一〇年に代表取締役社長に就任した上迫氏は、エネルギッシュな四十八歳。「おいしく、楽しく、からだに良い」製品づくりという軸をブラさず、闊達に進化する経営についてお話を伺いました。●雑穀卸からスタート●どん底からの復活明治二年に雑穀卸からスタートし、あられ、甘納豆、豆菓子を製造するようになりました。当時は一斗缶で量り売り、備後地区に五十店舗の徳永チェーンを築き、一世を風靡したのですが、スーパーマーケットの台頭という時代の波に乗り遅れます。製造から卸にシフトし、菓子問屋として利益なき繁忙の時代を経て、シリアル事業に進出。大手コンビニに採用されて、ダダダッと全国に売れ、ダダダッと輸入し、ダダダッと返品され、大きな在庫を抱えました。オーガニックのシリアルだったので倉庫の中で蛆虫が湧いてね、あの大群、今でも忘れられないですね。会社は一億の債務超過となり、倒産寸前までいきました。限界まで行って、原点は何かということを先代(上迫社長の妻の父親にあたる)と真剣に考えたんですね。雑穀卸から豆菓子のメーカーになった、そこが当社の商売の原点なのではないか?「困ったときには豆菓子に戻れ」っていう家訓もあって、どこにでもあるバタピーやいかり豆ではないもっと個性のある豆を作ろうと試行錯誤を始めました。たまたま先代はイカ墨のスパゲッティが好物で、ああいう真っ黒い豆が作りたい、と悪戦苦闘したんですが、イカ墨だけでは淡い灰色。「なんや、墨汁でも入れたろかい!」と口にして、ハタと「炭を入れる」という発想にたどり着きました。当時加工用の炭などなく、手作業で実験すると、未完成品なのに近所の人に評判になった。「あのジャリジャリした食感がたまらん」と発売を待ちわびてくれるのです。南方に戦争に行った近所のおじいさんが、「戦地でお腹を壊すと炭を食べて治し伝統の技と斬新な発想で、世界最強の豆菓子屋を目指す!徳永製菓株式会社代表取締役社長 上迫豊氏地元の人から親しまれる豆徳本店。古くなった昔の社屋を、古民家再生の技術で復活させた。よく見ると、「豆」というカタチの看板。「変化が楽しい」と社員に思わせる経営手腕に圧倒される。ご自身も「経営は面白い!」と喝破。13異業種に学ぶ40
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